Page-7 (1999~   )
1999年(平成11年)は、日本では大きな節目となるようなことが無かったので特に記憶がない。日本では昭和から平成に変わった時の注目の人”小渕氏”が、自民、自由、公明の3党連立で総理大臣をやっていた頃である。アメリカは景気が良いのに、日本はバブル崩壊後の景気低迷と失業率悪化から抜け出せず、就職氷河期が続いていた。欧州ではユーロと言う共通通貨がこの年に生まれ、欧州が一つの経済圏で実質的に纏まろうとしていた時期で、大きな節目を迎えていたが、一方では欧州の火薬庫でコソボ紛争が勃発して、ユーゴスラビア周辺ではまだまだ血なまぐさい殺し合いが続いていた。平和に浸っていた日本は、防衛予算が1997年以降殆ど増える事も無く、毎年5兆円を超えない予算額で推移、厳しい節約時代に入っていた。
↑ 対戦車ミサイルTOWの発射風景。AH-1Sには最大8発のTOWミサイルが積載できる。TOWは製造工場で封印され発射筒に入ったまま装着されて打つので、基本的に7年間はメンテナンスフリーである。打ち出されたTOWミサイルからは細いワイヤーが見えたが、このワイヤーは3750mまで伸びるので、有効射程は大凡3500mという事になる。
↑ 1999年4月 厚木基地で松野主税氏が撮影された第4対戦車ヘリコプター隊のAH-1S/73427 機首に部隊マークである”般若の面”のステッカーが貼ってある。
Wings
↑ 東富士では起伏にとんだ地形を利用して、低空で敵に接近してTOW等を撃ち込む訓練が繰り返され、AH-1Sのクルーにとっては実射もできる良き機会である。総火演では大量の弾薬を消費し、アホなマスコミは毎年のように「大きな無駄使い」的報道をしていたが、火薬類は使用期限があり、期限が来て廃棄する前に、練度を維持する訓練に有効活用することが必要なのである。
↑ 1999年8月に東富士演習場で行われた総合火力演習で、展示訓練を行うAH-1S/73444。この時の参加機は八戸の第2対戦車ヘリコプター隊からであった。1998年同様 20㎜機関砲の薬莢受けをターレットの下の付けているのが判る。自衛隊の薬莢の管理は厳しい為、演習終了後にススキの草原に墜ちた20㎜弾の薬莢回収は大変だったのであろう。其の為、わざわざこのような器具まで手作りで製造している。但し AH-64Dにはどうやっても付かなかったようで、どうせ地上における薬莢の回収が必要なら・・と言う事で、AH-64Dが参加した際はAH-1Sもこの薬莢受けも外している。
↑ 1999年4月 下総基地で展示飛行を行う木更津駐屯地第4対戦車ヘリ隊のAH-1S/73479 79号機。エンジンカバー上部には白い識別線が書かれている。この機体にも前項のAH-1S/73486と同様 ”死騎士”と鎌のマーク↓があった。
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↑ AH-1SのTOW発射をほぼ真後ろから捉えた写真であるが、発射されたTOWミサイルの推進薬の燃焼噴射は、真後ろでなく左右斜めに噴出している事が判る。これはミサイル自身が引っ張るワイヤを推進用の噴射炎で焼き切ることが無いように工夫をされているのだ。目標までガンナーはミサイルを誘導する為に、1度に1発しか操作できない。
↑ こちらの写真は20㎜機関砲の薬莢受けが付いているので、また別の年に撮影されたAH-1Sであろう。機体は明野駐屯地の第5対戦車ヘリコプター隊所属で、機番は読みづらいがAH-1S/73472と73436 に見える。
↑ 20㎜弾の発射と共に大量の空薬莢が地上に落ちる。曳光弾の光の長さから、シャッタースピードは1/1000ぐらいかもしれない。↑2枚のAH-1Sは、八戸駐屯地の第2対戦車ヘリ隊。
↑ 本項最後は松野主税氏が東富士演習場で撮影された力作3点を展示させて頂く。3枚ともに松野氏には珍しく撮影期日が無いので、いつの総火演かは不明であるが、薬莢受けが無い写真はかなり初期のものと思われ、氏の他の写真に1994年総火演の写真があった事から、その年のものかもしれない。TOWの発射位置が観客席からこのように近いのも、1998/1999年頃の総火演ではなかった事である。写真では見事にミサイルの発射炎が写っているが、戦車砲の発射炎と同じで、TOWの発射炎もほんの一瞬しか出ない為、フィルム時代のカメラでこのように撮れるのは、発射タイミングを熟知した氏の腕の良さを示している。